大山はこの国を見守り続けてきた。これまでも、これからも。

神奈川県西北部、丹沢山地の東端。標高1252m。それは、数千年の昔から人々が祈りを捧げた山。都心から好アクセスにかかわらず、稀有な自然を蓄えた山。独自の文化や風習が変わることなく息づく山。しかし、いまに生きる私たちは、そうした価値ある事実をほとんど知ることはありません。ただ登るためだけの山ではない。大山に目を凝らせば、思う以上に身近で、本物の歴史、本物の自然、本物の文化に満ちた宝の山であることに気付いていただけるはずです。さぁ、この国の人々へ、もういちど大山が帰ってきます。大山、ふたたび。

大山ブランドムービー
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大山、ふたたび。

「従前不動 大山夜雨」(歌川豊国〈二代〉画)
「従前不動 大山夜雨」(歌川豊国〈二代〉画)

大山序説

大山は、願いを叶える山でした。

大山は、ただそこに在る山にあらず。いつの時代も人と強いつながりを紡いできた山でした。均整のとれたピラミッド型のフォルムはもちろん、地理上の位置関係から、あたかも富士山を従えているかのように見え、関東一円どこからもその雄大な姿を望むことができる…万葉集でこの地方を象徴する山として「相模峯」と詠まれたように、この国の人々の目に神秘に満ちた特別な山として映ったのはごく自然のことと言えるでしょう。古来日本人は、自然の持つ力強さを敬い、人間に災いとなる天災さえも神の怒りによるものと信じてきました。山はその神が鎮まり、安らぐところとして敬まわれ、遥かに拝む対象でしたが、まさにその山として選ばれたのが大山でした。特異な存在感を放つ大山は、相模湾の水蒸気により常に山上に雨雲をたたえていたため、別名「雨降山(あめふりやま)」転じて「阿夫利山(あふりやま)」などと呼ばれ、農民たちは作物の豊作・凶作の生命線となる水の重要性から、大山に雨乞いの祈りを捧げるようになります。また漁師たちからは羅針盤をつとめる海洋の守り神、さらには大漁の神として信仰を集めました。特別な山となった大山の頂にあった巨石は御神体「石尊大権現(せきそんだいごんげん)」となり、石尊信仰と呼ばれる山岳信仰がこうして誕生したのです。大山山頂には、縄文時代の祭祀跡や土器などが発見されており、少なくともこの頃から人々の崇敬の対象であったことがうかがえます。

大山道

すべての道は、大山に通ず。

山の前面が開けた平野で遮るものがなく、遠くは房総半島の上総や安房、伊豆大島からもその雄大な姿を望めた大山。ゆえに、江戸はもちろん、広範囲に渡る多くの人々が「いざ大山へ」とその心を奮わせました。その証拠として、大山へと続く道「大山道」は、関東一円に及んでおり、参詣の人々でごった返し大いに繁栄。大山道には、主に8つのルートがあり、とりわけ東海道と四ッ谷(現在の藤沢市辻堂付近)で接続する「田村通り大山道」は、風光明媚な江の島へのアクセスも良いため、メインルートとして賑わいを見せました。東海道を通って、大山へ向かう江戸っ子たち、そして彼らが眺めたであろう大山の雄姿は、数多くの浮世絵に描かれ、往時の賑わいを語りかけてくれます。

オシャレなあの街も、大山へつながっていました。

皆さんにも馴染み深いあの道や街も、実は大山と深い関係があります。大山道の1つ「青山通り大山道」は、「ニーヨンロク」の通称で知られる現在の国道246号線。神田明神に参ってから赤坂、三軒茶屋、二子の渡し(二子玉川)、長津田、伊勢原を行く、約18里(70km)の道のり。渋谷道玄坂や三軒茶屋、代々木、川崎など、国道246号線沿いには、現在も大山街道に縁のある石碑や石仏が数多く存在しています。また青山通り大山道の道中には、参詣に向かう人々が一休みするための3軒の茶屋がありました。もうお分かりでしょうか。これが、三軒茶屋の地名の由縁。あなたの身近にも、確かに大山は息づいているのです。

青山通り大山道ルート
「相模州大隅郡雨降大山全図」(歌川国芳画)
「相模州大隅郡雨降大山全図」(歌川国芳画)

大山信仰と娯楽

大山~江の島、5泊6日の旅。

箱根の関所を超える必要がなく、富士や伊勢よりも気軽に参詣できた大山。しかし、人気を呼んだのは単に立地に依るものだけではありませんでした。せっかくの旅。大山へ詣った後、そのまま帰路につくのは名残惜しい…どの時代の人も想いは同じです。参詣後は、ほど近い風光明媚な江の島や鎌倉、金沢八景などで「精進落とし」と称し、宴を愉しんでから帰るのが人気の観光コースに。特に江の島は女神「弁財天」の存在から、男神である大山だけを参拝することを忌む俗言が宣伝され、双方への参拝が流行。浮世絵に大山講中が江の島へ向かう場面が多く描かれているのもそれゆえのことです。

「東海道五十三次 保永堂版」藤沢(歌川広重〈初代〉画)
「東海道五十三次 保永堂版」藤沢(歌川広重〈初代〉画)
左から、「今四天王大山帰り」(歌川豊国〈三代〉画)/「江戸自慢噂弁慶」(歌川豊国〈三代〉画)
左から、「今四天王大山帰り」(歌川豊国〈三代〉画)/「江戸自慢噂弁慶」(歌川豊国〈三代〉画)

大山詣と人

大山男子は、粋に生きる。

武将から庶民たちまで幅広く親しまれた大山ですが、ある特定の職を持つ人々の参詣が多く見られたのも特徴でした。その職業とは、火消しや鳶、大工、刀鍛冶といった粋を重んじた職人たち…雨降山の名や山頂の「石尊大権現」に因んで、水や石に由縁深い職を生業とする人々が縁を担ぎ、承福除災を願い訪れました。大工や鳶、火消したちは、高い所に登ることが多く、いつも遥か遠くに見える大山に特別な感情を抱いていたとも言われています。さらに興味深いのが、集金人の来る時期を狙い大山に参詣して借金の支払いを逃れる者、博打の勝負に勝てるようにと参詣する者もいたようで、こんな不心得な者たちを受け入れた懐の深さも大山の特徴と言えます。

「大山石尊大権現(大山詣)」(歌川芳虎画)
「大山石尊大権現(大山詣)」(歌川芳虎画)

芸も愛した大山

江戸時代、大山詣を描いた浮世絵には、歌舞伎役者が鳶や火消し等に扮し、数多く登場します。当時庶民の人気を二分していた大山詣と歌舞伎の組み合わせは、浮世絵の題材として好適だったゆえと伝えられていますが、こうした縁もあり、当時の大山は、「芸能にご利益がある」とされ、芸能関係の人々が参拝に。特に1年で最も賑わう夏には、多くの芝居小屋が立ち並んだと言います。

「金川ヨリ横浜遠見の図」(歌川芳虎画)
「金川ヨリ横浜遠見の図」(歌川芳虎画)

大山詣

あなたのご先祖様も大山を訪れたかもしれません。

古くから篤く信仰されてきた大山は、江戸時代、1つの転機を迎えます。大山へと参詣に向かう庶民たちの急増です。1年間に大山を訪れた人は、江戸の人口が100万人の時代、1/5にあたる約20万人にも達し、その隆盛を感じていただけるでしょう。なにゆえの加熱ぶりか?江戸時代の庶民は、観光旅行が許されていませんでした。しかし、参詣に行くと言えば、国境を越える通行手形も簡単に手に入れられ、伊勢詣や富士詣など寺社参詣を兼ねた物見遊山の旅が大流行したのです。なかでも江戸の町から2~3日の距離にあり、難所である箱根の関所を超える必要がない大山は気軽に参拝できることから、絶好の行楽地として愛されました。とはいえ今と異なり、1人で遠出することは経済的にも厳しい時代。庶民たちは、近所同士あるいは職業同士で組織「講」を作り、費用を出し合い、団体で大山に詣りました。このグループは総称して「大山講」と呼ばれ、まさに現代で言うところの団体ツアー、その先駆けと言ってもいいでしょう。現在でも多くの講が現存しており、主に夏の開山時期にお揃いの行衣をまとった大山講の人々の姿を見ることができます。