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小田原は関東の西の玄関口に当たる要衝の地であり、また、温暖な気候と肥沃な足柄平野を控えていることもあって、早くからこの地方の中心地として発展してきました。特に15世紀末に北条氏が入城してから1590(天正18)年豊臣秀吉の小田原攻めに至るまでの約1世紀は、歴史の表舞台にも名前を残しました。江戸時代には、関東防御を担う譜代大名の城下町としてにぎわいを保ちました。北条時代の小田原城は土塁や空堀を主とする「総構えの平山城」と言われ、現在の城址周囲にある江戸時代の城郭と比べると広さは10倍以上あったといわれています。城址公園内の史跡や早川口遺構など、さまざまな場所で当時の小田原城の様子を確認することができます。城内に今も残るイヌマキやビャクシンなどの巨木は、先人達の盛衰をそっと見下ろしていたはずです。
![]() 小田原城は、15世紀初頭に大森氏によって築かれたといわれています。1495年に小田原北条氏の居城となってから次第に整備拡張され、秀吉の小田原攻め直前に最大規模に達しました。現在の天守閣は、1960(昭和35)年に、模型や引き図を基にして江戸末期の外観が復元されたものです。城址全体が国の史跡に指定されており、北条時代の空堀や土塁のほかに、関東大地震の時に滑り落ちた江戸時代の石垣などを見ることができます。
![]() オオガハス 城内は天守閣を中心にして、石垣、土塁、掘りで分断された平坦面により構成されています。その平坦面を「曲輪(くるわ)」と呼び、敵の侵入を防ぐとともに、侵入されても敵を攻撃しやすくする構造になっています。「掘り」は、現在のように水は張られておらず、渡渉を阻む泥田状態に保たれていたといわれています。現在では「掘り」に水が張られ、オオガハスが植栽されており、夏季にはピンクの花を咲かせます。
![]() 南掘(みなみぼり)沿いに、3株のフジが植えられています。それぞれ樹齢100年以上の古木で、中でも東側の株は樹齢約200年です。5月の開花時には、藤棚全体に1m余りの花房が下がり、その様子は目を引き壮観です。このフジは、大正天皇を感銘させたということから「御感の藤」と呼ばれるようになりました。市の天然記念物になっています。
![]() 報徳二宮神社は、二つの堀に両側から囲まれた細長い平垣地である雷曲輪(かみなりぐるわ)に鎮座しています。雷曲輪には小田原城の火薬庫があったといわれています。神社の拝殿に向かって右手奥には北条時代の障子堀りの一部を残しています。また、参道の左側には、「二の丸の堀」がありましたが、現在は埋め立てられ、市営の駐車場となっています。
![]() 報徳二宮神社は二宮金次郎(尊徳)(1787年〜1856年)を祭神として1894(明治27)年に創建されました。二宮金次郎は小田原市栢山出身の篤農家で災害で没落した家を立て直した経験を基に殖産を説いて、多くの町や村を復興させるなど多くの業績を残してします。報徳博物館では、多くの遺品や資料などが公開されています。また、両側の社叢は、明治時代になってから植栽されたものですが、成長の良いクスノキなどにより、落ち着いた雰囲気をかもし出しています。
![]() 土地の人から「天神さん」として親しまれている神社です。ここには、古くから三光寺という真言宗の寺院があり、一時衰えていたものを、1561(永禄4)年に僧秀山が天神社の別当寺として再興したと伝えられています。天神社に伝えられている「菅原道真公」の画像は、「怒り天神」と言われ、北条氏康が奉納したものと推定されており、小田原市の重要文化財に指定されています。
![]() 玉伝寺は別名三宝院とも言い、北条時代の1522(大永2)年に今の早川口付近に建立され、江戸初期の1637(寛永14)年に再興建された後、現在地に移築されました。本山身延山守護の七面大明神像を寺宝として遷祀されています。お寺入口には、「題目塔」と呼ばれている大きな石碑が目立っています。
![]() 1516(永正13)年に後北条氏に討たれた三浦荒次朗義意(みうらあらじろうよしおき)の霊と木花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと)、火之加真土神(ひのかぐづちのかみ)を祀っており、小田原城の西側の大外郭に位置している神社です。また、後北条氏時代の小田原古水道がこの神社の麓を通り、昭和初期まで活用されていましたが、今は、東海道の下を暗渠で流れ、山王川から相模湾に注ぐ排水施設として機能しています。
![]() 合唱型宝塔 江戸時代の小田原藩初代藩主大久保忠世を開基とする寺で、大久保家の菩提寺です。本堂裏手には初代・忠世の墓石があります。法華五輪塔の代表的なもので損傷もなく文化財としても優れたものです。また、その並びに2代城主大久保忠隣やその一族の墓石が7基並んでおり、これらは合唱型宝塔と呼ばれていて非常に珍しく、小田原市の文化財史跡に指定されています。
![]() 小田原城は、内郭(本丸、二の丸、三の丸)とその外側に雄大な防御線としての大外郭(だいがいかく)を設ける構えで、「総構(そうかまえ)」「総曲輪(そうくるわ)」と呼ばれています。また、「総構」が土塁と空堀で作られていることから「総堀」とも言われました。早川口遺構は、城南方外郭の虎口(出入口)を防御する構造で、数個の虎口や2重構造になっている土塁、堀で構成されています。1978年に国の史跡に指定され、現在は史跡公園として整備されています。
![]() 西海子小路は、武家屋敷が集まっていた小路で、今も広い敷地の邸宅が並ぶ静かなたたずまいが往時を偲ばせます。この周辺には、明治から昭和にかけて北原白秋、坂口安吾など多くの文学者も住んでいました。西海子小路の西突き当たりが、旧熱海入湯道の起点で、熱海まで軽便鉄道が通り、芥川龍之介の「トロッコ」の舞台となりました。「西海子」の名は、マメ科の植物「サイカチ」に由来しますが、今は約400mのサクラの並木になっており、春には見事な花のトンネルとなります。
![]() 正恩寺のもともとの発祥は尾張で、1593(文禄2)年に当地に移転したものです。木造・入母屋造瓦葺の鐘楼門が小ぶりながら優雅な姿を見せています。正恩寺を含めたこの辺り一帯は、海岸に近い砂地であったため農耕地にはなり得ず、結果的に海岸線にほぼ平行して寺が連らなる独特の街並みが形成されたといわれています。これと同様な街並みは、房総の海岸線でも見られます。
![]() 以前は小田原海岸、袖が浜と呼ばれていましたが、1873(明治6)年の明治天皇・皇后の行幸(ぎょうこう)以降、御幸の浜と呼ばれるようになりました。海岸からの景色はすばらしく、伊豆半島や三浦・房総半島を一望に見渡すことができます。上空を舞うユリカモメの姿もよく見かけます。 また、秋の11月3日には、恒例の御幸の浜海上花火大会が催されるほか、1月1日には、新春の初泳ぎが行われます。
![]() 1145(久安1)年〜1151(久安7)年に創建された旧小田原町の鎮守で、祭神は日本武尊(やまとたけるのみこと)です。小田原はこの松原神社を核として発展してきたともいわれ、例祭は市内最大で、山車で奏する小田原囃子は神奈川県無形文化財に指定されています。また、松原神社には数学の問題が解けたことを感謝し、益々勉学に励むことを祈願したたくさんの絵馬(算額)が奉納されています。
![]() 小田原城の大手門は幸田口、箱根口とともに重要な虎口(出入口)の一つでした。その大手門跡に建てられた鐘楼は、元々旧三の丸堀に300年ほど前からあったものが明治年代に現在地に移されたものだそうです。関東大地震の被災や太平洋戦争時の鐘の供出など歴史の荒波にもまれてきましたが、その都度修復されました。現在でも鐘は朝夕6時に撞き続けられており、その余韻が300年の時を越えて、当時の小田原城下へと導いてくれます。
![]() 常磐木橋前には、幹周り4.5mに及ぶ小田原市最大のイヌマキの巨木があります。イヌマキは成長の遅い木ですが、これは高さは20m、枝張りは東西に25mもあって、公園を訪れる人々が目を見張るような大木となっています。城内で最も樹齢の高い木であるといわれており、北条時代や小田原攻めなどさまざまなできごとを見つめ続けてきた、いわば歴史の生き証人といえるかもしれません。今後とも生き続けてほしいものです。
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小田原駅コース